昭和47年03月22日 朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中から出来た神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやつてある。」
教祖生神金光大神の御信心によって、天地金乃神様が踊り出なさった、と言った様な感じが致しますね。昔からある神ぞ、などと言うておられる所。いかにかその躍り出られる時期を待ちに待つておられたかと言う様な感じ、ね。それまではどこにか隠れておられたかのように、あの感じられますけれども。例えば教祖金光大神あつて神が世に出たと、こう仰つしゃる御自身でも、ね、かと言うてならその世に出られる前から、その天地の親神様の御働きというものが、あってなかったかというと。
そうではなくて矢張りあっておった。ここ信心をせんでもおかげはやってあった。そこで天地金乃神様や、教祖金光大神のいうに、又、金光大神の信心を通して、御出現になられた。ね、そこで始めて天地の大恩と申しますか、ね、天地の心と申しますか、金光大神を通して、天地の心を解き明かして下さり、ね、初めて天地の大恩がわかる。初めて信心はせんでも、知らなかった前からも、この神様のおかげを受けておったんだな、受けておるんだなーと言うことがわかる。
初めて神恩報謝の心と言うものが、神様へ向けられることになる。そこでその神恩報謝の心を天地金乃神様に、向けさしてもらうと言うことが、唯有り難うございます、唯、感謝だけ、捧げておれば良いと云うのではなくて、ね、天地のいわゆる心を知って、その心に応える事が天地金乃神に対する所の神恩報謝の生活であると云うことである。天地金乃神の心を知る。ね、心を知らなければ、いかに有り難うございますと云うても、その有り難うございますが、有り難うございますになってこない。
報謝と云うことは、ね、報い奉ると言う事である。ね、神恩かたじけなしというその心が、その神様へ向けて有り難うございますと云うだけではなくて、その報いられると、神様に報いると云うこと、どうしても天地金乃神様の心が分からなければ、どう報いてよいかわからない。ね、あちらに、お世話になったから何かお礼をさしてもらわなければならん。ためにはせつかく、そのお礼に対し、お礼ならば、ね、相手にも喜んで貰えるお礼でなからなければ、お礼がお礼にならない。
あっちからもろうたばってん、なぁにんならんちゅうごたるもんが来た所で、それは本当のお礼になりませんよねね。初めてねおかげをおかげと解らして貰い、天地の大恩を解らしてもらい、その大恩に報いるという事。ね、知らなかった間は、仕方がないとして、それを解った所から神恩報謝の生活が出来る。そこで報謝し奉る所のもんは、どのようなものでなからなけれならないか。それは天地乃親神様の心を知って心に応え奉る所の報謝でなからなければならない。
そこでならどういう心で報謝し奉るか、どういう心で報謝し奉つったら神様が喜んで、ここでは天地日月の心になること寛容と仰つしゃられる。だからどうでも神恩報謝の生活というのはね、天地日月の心というのが身についてからの有り難い勿体ないという生活でなからなければならないということ。ただお礼ばつかり言いよります、もう有り難い有り難いというただけじゃいかんということ。天地日月の心に、ね、その天地日月の心になっての神恩報謝であって、初めて神様が喜んで下さる。
その神様の喜びが、御ひれいになって現れてくる。ここに、あのはやるという言葉を使っておりますね。流行これはあの成る程流行、歌なんかでも流行歌とこういうのがある。品物でもこりゃ最新流行ですと、こういうふうに云う。ね、確かにそういうのは、やはりこうすたりますけども、例えば流行ると言う事を、ここでは私はこの発酵すると云うですかね。御ひれいが輝くと言う事。こういうふうに私は頂かなければいけないと思うですね。はやるのではなくて、御ひれいが輝くと言う事。ね、
その御ひれいが輝くと云うのは、只今申しますように天地日月の心になつて神様に神恩報謝の生活が出来る。報謝し奉るところの生活。神様がそのままお受け下さる、そのままのお喜びが神の発動と云うことになる。発動というのは発動機の発動ですよね。モータス。ね、自動車でもそうでしょう。発動機発動発動しなかったら、いくら形がいくら自動車がこうやつてあったっちゃ、動きゃしませんよね。電気が起こらないとか、例えば精米なら精米でもそうです。
発動機がおこらなかったなら、そこにどんなに精米の機械の設備が完備しておっても発動しなかったら何の役にも立ちません。例えば天地が流行ることがないと仰つしゃる事、流行と言った様になくて天地の発動ましますほどしの、ね、おかげを受けなければ、神のひれいを表わす事は出来ません。ね、今まで出来なかった事、それこそ夢にも思わなかった様な事が、ね、段々出来て来る様になるのは、その神様の御発動が始まるからなのです。ね、ですからほんとこのうえのおかげを受けると云う事は。
神様の御発動を受けなければね、本当におかげになってこんです。ですから神様が発動し給う程しの神、所謂天地を動かすほどしのいわば心というのが、天地日月の心なんです。その天地日月の心を持ってです神恩報謝、ね、天地日月の心を持ってるだけではいかん。天地日月の心を持ってです報恩の、ね、報い奉るそれに対して報い奉る所の信心生活が出来る所から、ね、天地が発動したもう程しのおかげになつて来る。
私は昨夜、昨夜というか最近、かぜの為に休ませて頂いておりますから、ほんとに休んでおらなければ、思いも寄らない様な事を、色々まあ深く広く分からせて頂いて、所謂、おかげはやってあるけれども、受けておる事を、受けておると感じないでおる事の多い事に驚くくらいですね。どんなに考えても不思議で不思議でたまらん。ね。もう例えばもうお水を沢山頂きます。水分を取ります。
ですから従つて便所にも沢山行くわけです。もうこげん所の不思議な所ね。ほりゃ沢山飲むなら、沢山小便に行く事は当たり前。そん当たり前の事が、とても不思議で不思議でたまらん。なしかちいうちから、あなた小便に行くときは水はでらん。もうそれこそ黄金色の所謂小水なんです。頂いておるのはま清水なんだけれども、出るのは黄金色の水が出る。ね、そりゃもうちゃんとこう体のとこ、こう回っていくからそげんなる。
青い野菜を頂いてそれが赤い血になる様に。その辺の所の神様の働きのその巧妙さというかもう不思議で不思議でたまらん。もう本当に水ばっかり飲むけんで、もう何べんでん小便に行かにやんちうちから、悔やむんじゃなかとても、それが何べんでん数があのやらせて頂くなら、是が有り難うして有り難うして応えん感じがするんですよ。ね、神様がおかげはやってある。その頂いておるおかげをおかげと思わんと、お神様に向かって何べんでん便所に行かにゃんと、不平不足になってくるわけですね。
まあそう言う様なふうで、もう事が万事にもうとにかく、お礼の足りないお詫びばかりをせにゃおられんほどしに感ずる、と神様は休みながら思わして頂いておると。今朝方私はお夢を頂いた。ね、数字の3ですね、123の3、3を10集めると、いくらにいくつになるか。というてその私はそのいわば数学の先生になっとった。計算できましたか皆さん。3が10をね、30になろうが。ね。
そんならば3を20にすると幾つになるか。まあ3をとう、合わせると30になるとまあ、ここまででけたけれども、3を20ということになったら、なかなかできん。私はそれがもうはがゆうして、はがゆうしてたまらん。こげん見やすい計算が、あんたどん出けんの。ね、3を10で30なら20なら、その倍じゃけん60じゃろうもんち。ち私は言うけれども、ちと、そげん難しか計算は出来んちゅうごたる顔をして、解ったふうにせん。もう私はもう机をこうこう叩いてから。
もうちょつと、あんたどん頭が悪かのち言うちから、えらいはがゆがりよるとこを頂いた。もう本当に毎日毎日、私がこうしよって御理解を説いていることは、その事ですよ。ね、3を10も集めりゃ30。3という字は今度漢字の三にして書いてみて下さい。三という字はお参りの参ると云うことになりましょう。ね、10と言うことは、これはまあ、全うしたと云う事、ー生懸命参る。10は百にも千にも万にも通ずるわけですよね。ー生懸命まあ参つたちゅう事。ね。
そこにはね、もう絶体のいわば30のおかげという事になる。答えが出てくる。ね、だから、それだけじゃでけんち、私が言い寄るとです。ね、その例えば30のを倍にせにゃいかん。その三を十じゃなくて、そりゃおかげだけじゃから。それを二十にしなきゃいけん。二十と言う事をだから倍と言う事。倍にすりゃ三十の倍じゃけん六十、もう本当にこげん簡単な計算はないと。ね、三を二十合わせると六十になる。計算が出来たでしょう、皆さん。六十と言う事はどういう意味か分かんなさるでしょう。ね。
六十と云う事はお徳と云う事です。ね、あのいつも申します禄と。ね、有馬さんは何百石、鍋島さんんは何千石と云うふうに云うでしょう、石持ち昔はね禄高それは禄と云う、だからこの禄と云う字を書かにゃいけませんそれをだから、六はそのまま徳なんです。ですからー生懸命参ればおかげを頂くがです、それをもういつちょ倍参るという事はね、参る事その事には同じであっても、その内容がね、変わってこにゃならん。三を二十すれば六十になると云う事は、こうしてこうすりゃお徳が受けられるといいよる。
こうしただけでは、おかげだけなんだけれども、ね、参るだけならおかげだけだけれども、ね、こうしてこうすりゃあぁなるとこう言う訳なんです。こうしてこうすりゃお徳が受けられる。人間はこの世で徳を受けておく為に、この世に生まれて来たんだ。人間はこの世に魂を清めに来たんだ。この世に徳を受けに来たんだ。何十年この世にお生かしのおかげを頂くか分からんけれども、この世で魂を限りなく清める事に精進さして頂いて、お徳を受けて、そのお徳をあの世に持って行かなければ幸せになれんぞ。
又そのお徳は子供にも残り子供にも残るぞと教えてある。こうしてこうすりゃお徳が受けられると言う事、それも整然と、ね、みやすうといておるのを皆さんが、とききらないと言う事な、まあ何という残念な事かと言う事を私は今朝お夢の中でもう卓を叩いて、はがゆがる所じゃった。ね、ならこうしてこうすりゃ徳になると言う事は、どう言う事かと。愈々お互いが本気で、天地日月の心になる事なんです。ね。
天地日月の心になって、しかもその心で報謝し奉る所の生活に入らなければならない。そうすれば誰でもお徳が受けられる。あの世は心配ないという事になるんです。ね、三ば十集めりゃ三十という答えが出てくる。ね、ー生懸命参つてくりゃやおかげは頂く。けれどもねそれをもういっちょ倍にせにゃん、二十にせにゃん。ね、三を二十にせにゃいかん。計算ばしてご覧なさい。その計算が皆が皆んなが計算をしようと思うていない。大体こげな見やすい計算を計算をしょうと思うてないから、ね、
ようやくやっとかっととうが三十、三がとお集めりゃ三十になる事だけは分かつたばつてん、なら二十にしなさいちいうたらもう計算しようとせん。だから解らん計算をしょうと云う気になったら見みやすい。成程六十になる事が分かる。ね、こうして信心すりゃおかげが受けられる。ならこうしてこうすりゃ徳が受けられる。ね、ここん所を今日はです、ね、天地乃親神様が教祖金光大神あって始めてこの世に出られた。やっぱそういうものをここは感じますね。
何かこうもう嬉しいやらこうちょっと威張ってあるごた感じですね。天地金乃神は昔からある神ぞと、ね、途中から出来た神じゃないぞと。もう昔からある神ぞ、と、わざわざ説明をしとんなさる。自分が金光大神をとうして、この世に出られたことを。ね、そんなら、その神様を私どもも金光大神のおかげで分からして頂く事が出きた。成程、天地ははやることなかけん、終わりもなかろうだけで言ったもんじゃ、いつもおなじこつ、ほんなら天地金乃神様が踊り出なさった前も、踊りなさらん。
いわば隠れ同じ事じゃろうもん。おかげ頂かんなら、ただおかげだけならば、金光教でなかったっちゃ受けよったちゃろうもんそれまで。ね、いうなら参りさえすりゃいしのおかげでん、おかげ受けよったちゃ、参りさえすりゃ30になるというとこまでは。いかに金光教がその威張った所でです、ね、その天地が発動ましますほどしの発動、天地をさせきらんならば、これは千年万年経ったところで、同じことです。
所謂天地金乃神様は、この世に出なさったしるしと言うものがないじゃない。唯おかげだけであるならば。ね、その天地の親神様の心が分かって天地の親神様の心に添いまつる神恩報謝の生活で出来る。ね、だから徳を受ける。天地日月の心の心にならして頂いて神様へ報謝の生活が出来るからお徳を受ける。お徳を受けるから天地が発動ましますほとしの、勢いというかおかげを受ける事が出来る。でなかったら千年万年経っても天地金乃神様この世に出なさらんなら、金光教がどれだけ発展しておるかと。
一つも発展しよらんじゃないか。例えば一万なら一万の信者数があるが、いつも一万じゃないかと。金光教の信者全体が思わなければならない事はです、3を10にれば30になる所までは頂いておるけれども、それをもう一つ3をね20集めれば60になると云うお徳の世界を目指してない。目指す又術を知らんのかもしれない。それには天地日月の心になる事肝要であると言う事。そこでなら天地日月の心とはと、日頃私が皆さんに聞いて頂いた通りなんだ。
天と言えば限りなく美しい心で、ね、云うならば、ね、与えて与えて止まない心なのだ。限りなく美しゅうなりましょうというのはそれなんだ。与えて与えて止まないしかも無条件、これをやるけん、これば下さいなんてんもんじゃない。ね、天地の心と云うのは、こんだそれとは反対に受けて受けて受け抜いていく心。ね、土のような心、どのような事があっても、それを、例えばここでは成り行きを大事にしながら御事柄として受けて行こうとこう云うのである。日月の心、いわゆる実意丁寧な心である。ね、
間違いない心である。そういう心にならせて頂こうと精進するところにです、ね、生まれてくるのが、もういやがおうにでも頂ける心が和賀心なのです。ね、その和賀心で天地に対する所の神恩報謝の生活が出来るのですから、ね、神様が受けて下さるから、そのお返しに神様が発動増しますなさるのも当然なんです。皆さん、例えば私が今日お夢で頂いた、3を10集めれば30になる。そんならば皆さん、3ば20集めてみなさい。計算する気になれば誰だって計算が出来るのである。ね、
こうすりゃおかげは受けられますちゅう。ね、ならこうしてこうすりゃお徳が受けられるということをです、本気で計算する気になって、初めて成程こうしてこうすりゃね、本気で私がいうておることを皆さんが、行の上に表わしてくださるならば、お徳を受けることが出来るという答えが出てくる。計算する気にならなかったら、いつまでたったって私が、ね。机を叩いてから、こげなみやすいもんが出きんの、計算せんもんじゃけん出けん。しょうと思うとらん。ね、本気にそこん所に取り組ませて頂いてです、ね。
おかげを頂いていかなければならん。そういうおかげを頂いていっておりますとです、今度はまたおかげの世界と云うものはもう限りなく広がつて行くものです。それは頂く世界もですけれども、今まで頂いておったおかげの世界が今までは当然だ当たり前だと思っておった世界にです、もう本当に不思議で不思議でたまらん、こういうおかげを受けておる。お水を沢山飲んで沢山、小水が出る。ほんにもう面倒くさかてんたんてんち普通は思いよる。けれども心の中にです、ね、有り難い心が開けてくるとです、そのことが不思議で不思議でたまらん。
そこから有り難い心は、いやがうえにも頂ける。その有り難い心で、いよいよ神恩報謝の生活に入らして頂くというのである。今日の私が頂いたお夢の計算の所はね、まいつぺん、よう考えてみて本当に先生は、ここん所の計算をー生懸命、それこそ卓を叩かんばかりにして言いよんなさる所と思うて皆さんがその計算をしようと思うてないところを気付かして頂いて、ね、本気で計算する気になりゃ60と言う答えが出ると云うね、ひとつおかげを頂いてもらいたいと思いますね。
どうぞ。